ウパニシャッド⑤カイヴァルヤ・ウパニシャッド

カイヴァルヤの意味は、「世界は1つの存在であり、分かれたものなど何もないことを理解していること。」1つの根源からすべてが生じていることを理解すると、人は恐れ、苦悩から完全に自由になる。この自由を究極にはカイヴァルヤという

 

人は本当の存在を理解していないとき自分と世界は分かれているように感じる。そして不安、孤独、苦悩を感じる。しかしインドの聖典は、本質的に人間と世界は1つの根源から生じ、何も離れて存在しているものなどないという。1つの確かな存在こそが真実だと理解することで、孤独、苦悩から完全に解放されている状態をカイヴァルヤといい、完璧な自由こそが本来の人間の姿であると考えるのがこのカイヴァルヤウパニシャッド

 

ヨーガスートラ最終章でも、不安苦悩輪廻束縛からの自由が人の本質であると語る。そしてこの自由はヨガによっていたることができる

 

望まない苦悩からの解放が自由。

苦悩は特殊な考え方。物事の見方を変える確かな知恵を与えるのがウパニシャッド。自分独自の固定観念や勘違いを改め自由を実現した人の知恵と理解で自分の理解を改めようとする生き方をヨガという

(たしかにヨガは心と体を感じるし心すっきりする)

 

真実を知るには3つ方法がある。

  • 心を浄化し教えに心を開くこと

真実を知りたい望みと、教えに心をオープンにしておくこと

→自分を律する規律と正しさでさらに磨くことができる。

  • 世界と自分のつながりを知る態度

つながりを理解しこころの穏やかさを身に着ける方法。

→自然の恵みに感謝し祈り、秩序を理解しようとすること。

  • 瞑想し理解を深めること

自分と世界の知恵を聞いたら、深く理解するために瞑想が必要。

理解したことを深めるように繰り返し熟考し、瞑想する。

 

真実を知るものは限りない事由に至る。その自由とは儀式や行い、マントラや瞑想によって手に入れることはできない。子孫や財産、惠みや喜びでも自由はかなえられない。自由とは、今まさにあなたの心を輝かせる意識の源を理解すること。秘められた意識の輝きは本来の自分であると理解することによって自由はかなう。

 

体感、五感、記憶、心、感情の中心にあるのは意識の根源であるあなた自身。その時分を知ることである。本当の自分を知るために時間と努力を費やした人だけが深い理解と事由に至る。

 

自分の意志で決めた行いをカルマと呼ぶ。行いは様々な願望をかなえ願いを実現するための力を宿している。人は行いによって、努力さえすればなんでもかなえられそうな気がする。がカルマはたった4つの結果しかかなえることができない。

  • 生み出すこと
  • 変化を加えること
  • どこかに行くこと
  • きれいにすること。

→私たちがするどんな行いもこの4つのカテゴリのどれかになる。4つの行いはどれも限界がある。生み出し続ける、変化を与え続けることはできない。必ず元に戻ってくる。カルマがかなえることができるものには限界がある。

(なるほど!たしかに変化してもその1舜だけで、そのあと続かない私)

 

永遠はこの世界においてただ1点だけある。どんな体験においても宿るあなたという存在。過去も未来も今も、体や心が変わってもあなたという存在がなくなることはなかったしこれからもなくならない。体、感覚、心とは違う本来のあなたは消えることも変わることもなく昔にも未来にも今この瞬間にもある。

(馬車に乗っている人が五感や心と離れている意味がわかった)

 

・人は本来苦悩のない存在である。

お風呂につかり心地よいとき、食べ物がおいしいとき、圧倒的な光景を見たとき、大きな山や広がる海を見るとき、・・・素のままでいるとき、人は悩み苦しまない。(たしかに赤ちゃんには悩みや苦しみがない)自分のままでいるとはそういうこと。

 

・カラダ・感覚・心こそ自分だと人は思いこむ。これらは道具に過ぎない。これらが自分だと思い込んでしまうと、道具や物の限界が自分の限界になってしまう。目に見える範囲だけで自分を決めつける考えから、悩みや苦悩は生まれてくる。自分を知らない人は、自分を「行いをする人」「結果を経験する人」と決めつけてしまう。そんな風に自分を勘違いした人は体や感覚や経験によって一時の満足を得るものが自分である、と自分の限界を信じて疑わない。

(私、まさにそうなっている気がする。その場の五感の幸せが自分の幸せ。それがなくなることで心が不安になる。限界が無限にある気がする。だから自分の考え方を変えるしか幸せになる方法がないんだなあーうーん。人や宇宙が私に求めるもの、私が幸せだと考えることをしたらいいのかなあ。でもそれってなんだろう)