(読書)煩悩があるから人は成長する 瞑想と認知科学の教室
- 釈迦の教えは、「社会に役立つなら煩悩もOK」。
なぜなら世界の役に立つということも煩悩なのだから。ただ、「この人を殺すことが社会にとって役に立つんだ、だから殺そう」といったようなことがまかり通るとまずいので、役に立つかどうかには基準が発生する。ちなみに、死に方がひどいほどカルマが清浄されるというのが、オウム真理教がポアを行う論理である。
- 煩悩とマインドフルネスの矛盾
成瀬さんのヨガは煩悩があることを事実としてとらえているだけ。それに執着しないで離れていくことをめざす。
今の日本は煩悩を肯定しすぎているきらいがある。また、西洋式のヨガやマインドフルネスの考えにも根本的な矛盾がある。西洋式ヨガ、マインドフルネスは、大きなストレスを抱えるウォール街の人々に支持されているが、彼らほどお金に執着している人はいないだろう。そして、西洋式ヨガは、「自分はすごい、何をしても大丈夫だ」という自己効力感が強めるもので、人をますますエゴにさせてしまうようになっている。お金への執着を捨てずにストレスだけ解消するヨガ、解脱のないヨガなら何のためにやっているのかわからない。人をだましてお金儲けする仕事をやめるだけでストレスはなくなるのではないか?
もともと出家とは自我の入れ替え。自分が何を大事と思うのかの評価基準の入れ替えである。それで解脱を選ぶとバラモン教になる。マインドフルネスには自我の入れ替えがない。
(小ネタ)バラモン教について
バラモン教と呼ばれているものはもともとブラフマンとアートマンの統一を目指すブラーフマニズムから来たもので、もともとバラモンのための生き方を示していた。それがヒンドゥー教へと変化していった。
- 煩悩があるから成長する。
悩みや辛いことはあって当然。それがないなんて仮死である。煩悩があるから失敗したり、成功したり、喜んだり悲しんだりする。煩悩があるから成長もする。
執着を無理やり捨てることは難しいし、無理やり捨てるものでもない。例えば本を書くことも悟ることも執着だが、悟りたいという執着があるのに、「執着を捨てなさい」というのはおかしい。執着を捨てるのではなく、正対することで、この執着はもう要らなかったんだな、と気づき、自然に捨てることになる。
- 人生経験は悟りの道
人生経験を積んでいけばその先に自然と悟りがある。だから今の趣味やトラブルはすべて悟りに至る道である。悟りに至るには、一度手に入れないといけない。つかんだその先に離れがある。つかまないと離れない。だから人生で経験できることはしてもいいけど、執着はしてはいけない。
テニスをしていたとき、事故で急に腕をなくした。そのとき「あ、そうなんだ、じゃあ何しよう」となるのがしがみつかないということ。そして「どうしようかな」と考えることが瞑想である。でもそれは、もともと思い切り練習しないということではない。
→これがちょっと難しい