(映画)魔法でなにもかもうまく行くわけではない まほうのレシピ

魔女三人のお話。嫌いな人を呪ったり、願い事を叶えたり、魔法はなんでも実現する力があるようにみえる。けれど、魔法をかければかけるほどいろんなことがうまくいかなくなっていく。自分の思い通りに世界を動かすってなんておこがましいんだと改めて気づかされる。

 

魔法をつかうと失敗も多いし、悲しいこともイライラすることもある。けど、登場人物のみんなは過去をふりかえらない。「でもこんないいこともあったよ」「じゃあつぎどうする?」の言葉がいつも出てくる。友達が後悔していたら、共感ではなく前を向くように促す。感情を感じきって流す、が当たり前にできる生き方って素敵! 

 

主役の三人組は幼稚園児からの長い付き合い。ずっと友達でいるって素敵だけど、それで時にうまくいかなくなることもある。同じ関係が続くってことは、ずっと変わらない人間関係に縛られるということでもあるのかもしれない。

 

バージョン202では、味方だったはずのOCが敵になるというパラレルワールドの世界が展開。ハーブを育て、つつましいピアノ教師をしていたおばあちゃんは、こちらの世界では市長になっている。自分の力で街をまとめたい彼女にとって、ガールズたちの魔法は身勝手で驚異でしかない。どこの世界も、権力がある人が身勝手になる。権力争いって人と人とのバランスなんだなぁーなにごとも。


最後に。就職面接前に超ポジティブなママPの性格を手にいれたおばあちゃんを見て思ったこと。面接って気のもちようか。私もやっぱりしゃべり方がうまくなるようにトレーニングやりたい

(映画)養子って大変。改めて。 インスタントファミリー

 

養子って簡単に考えてたけどかなり複雑。
夫婦の仲がよくないとまず無理。
夫婦だけじゃなくまわりの家族もあってこそできることなんだなと思った。

 

あとやっぱり親子は同性同士でもめるんだなー笑。それは変わらないのか、、ママが娘にヒステリックだったのが気になった。

 

実親がでてくるとしんどい!子もしんどいんだなと改めて。実の親から拒否され続けれて里親も信頼できないってだいぶ辛いわ。

 

最後に。里子の選び方がフリーマーケット形式なのはえぐいなーと思った。こどもたちの生存をかけた競争社会

(読書)誰にでも葛藤はあるんだなぁと改めて。 猫を捨てる

 

猫を棄てる 父親について語るとき

猫を棄てる 父親について語るとき

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2020/04/23
  • メディア: 単行本
 

 

 

戦争を経験するということは、不運な時代を生きてしまうことである。しかし、その中で奇跡的に生き延び、家族を作ったからこそいまの世代が存在している。そう考えると、自分の存在が偶然でなりたつ不思議なものに思えてくる。

 

不遇な若者時代を過ごした筆者の父にとって、好きなだけ勉学に励むことのできる息子は複雑なものだった。自分がやり逃したことを息子にはやらせたい、そんな気持ちも強かった。結果、父と筆者は疎遠になる。筆者からすれば、父としっかりコミュニケーションをとることよりも、より明確な人生の目標があり、やるべきことも多かったのだ。そして守るべき家族もいた。

 

だが一方で、親の期待に添えなかった痛みはずっと持っている、と筆者は言う。村上春樹ほどの人間でもそのような葛藤があるのか(そりゃそうか?)という驚き。家族の問題というのは普遍的に誰にでも存在しているんだなぁ、、と今さらながら改めて。

 

けれども、守るべき家族がいたことは、心のささえとしてとても大きかったのではないかとおもう。妻がいなければ、拠り所は親しかなかったはずだ。自分を影ながら支えてくれる家族を見つけることで、男性は親から自立できるということなのかもしれない。でも女性は、、、。うーむ

 

そして、いまのコロナは前代未聞と言われている。前列に従わないあらゆることが起きているが、戦争のときも同じだったのではないか。未来を考えると不安になるが、過去を振り返ると安心するような気がしてくる。

大切なものほどいつか必ず失う、なんていうのは嘘である

ほしいものを手に入れないのは、失うのが怖いからだ。

 

トラウマと言ってもいいのかもしれないが、大事な人や物はどこかに行ってしまう、というジンクスが私にはある。青春のころ大好きだった先生2人は、ある日突然リストラされていたし、職場の尊敬する同期は何人も転職していった。尊敬する上司は左遷された。仲良しの友達は駐在で海外に行ってしまう。恋愛は遠距離にばかりなる。大事なモノもそうだ。お気に入りのグラス、ギア付き自転車、などなど思い出せばきりがない。

 

だから、いつの間にか失わないようにするようになった。自転車は取られるから買わない。お気に入りの家具なんてもってのほかだ。どれだけ好きな服でも、白だったら買わない。上京したけどいつ帰るかわからないし、友達もほどほどにしたい、だって別れたくないから。恋愛相手は慎重に選びたい。裏切らない人でないと安心して恋もできない。

 

失わないようにするのも結構つらいけど、私はそれ以上に、執着していないふりをすることも上達させた。部屋に愛着を持ちたくないからレイアウトはほどほど。ちょっとでも要らない物や服は結構すぐ捨てるし、別れた恋人はブロックする。ぜんぜん悲しくないもんそんなの!みたいなふりをしているのが我ながら結構得意だった。悲しいことや辛いことは、私の人生にあってはいけないと思っていた。

 

でも人生そんなにうまくもいかないもので、絶対裏切らないだろうと思っていた彼から、唐突に別れを切り出された。それも、新宿の臭くて汚いチェーン系カフェで、唐突に。ああやっぱり、私の大事なものはぜんぶどこかに行ってしまうんだなぁ、と思った。全然立ち直れなかった。

 

そしてそこでふと気づく。悲しい気持ちや辛い気持ちを認めないことはできるけれど、それは耐え続けられるようなものではないのだと。そもそも私たちの外の世界は絶対に変わっていくものだから、私から絶対に離れていかないものなどない。でも悲しみや怒りはずっと私につきまとってくる。私の心は、どれだけ追い払おうとしても私から離れていくことができないのだ。

 

私はずっと私の心から離れようとして生きてしまっていた。私の感情という大事なものをないがしろにしていた。でもこの私自身だけは、絶対に私から離れない。大事なものは、離れていかない。離れていく心配はもうしなくていい。だからまず、悲しみも喜びも置き去りにしないで、一緒に迎え入れて認めてあげよう。まだその修行の途中である。

(読書)親は選べないと思ってたけど。 僕たちが選べなかったことを選び直すために

 


NASAで定義される直系家族は、子と配偶者、子供の配偶者。医療チームや支援スタッフの控える特別室に入れるのは直系家族だけ。親は入れず友達と同じ扱い。

 

親を選ぶことはできないが、縁を切ることはできる。選択できるものに変えられる。

 

がんは人間関係を壊す。近しい人が、よかれと思って傷つける。

 

人間の命は株式のようなもの。
何人もの株主が投資してくれている。
投資してくれている以上配当は出したい。
でも過半数をもつのは自分。仕事、就職先、どこにすむか、誰と結婚するか、決めるのは筆頭株主だ。自立とは筆頭株主になること。親が筆頭株主だとしたら、それは子会社のやとわれ社長にすぎない。

 

(読書)煩悩があるから人は成長する 瞑想と認知科学の教室

 

瞑想と認知科学の教室

瞑想と認知科学の教室

 

 

 

  • 釈迦の教えは、「社会に役立つなら煩悩もOK」。

なぜなら世界の役に立つということも煩悩なのだから。ただ、「この人を殺すことが社会にとって役に立つんだ、だから殺そう」といったようなことがまかり通るとまずいので、役に立つかどうかには基準が発生する。ちなみに、死に方がひどいほどカルマが清浄されるというのが、オウム真理教がポアを行う論理である。

 

  • 煩悩とマインドフルネスの矛盾

成瀬さんのヨガは煩悩があることを事実としてとらえているだけ。それに執着しないで離れていくことをめざす。

今の日本は煩悩を肯定しすぎているきらいがある。また、西洋式のヨガやマインドフルネスの考えにも根本的な矛盾がある。西洋式ヨガ、マインドフルネスは、大きなストレスを抱えるウォール街の人々に支持されているが、彼らほどお金に執着している人はいないだろう。そして、西洋式ヨガは、「自分はすごい、何をしても大丈夫だ」という自己効力感が強めるもので、人をますますエゴにさせてしまうようになっている。お金への執着を捨てずにストレスだけ解消するヨガ、解脱のないヨガなら何のためにやっているのかわからない。人をだましてお金儲けする仕事をやめるだけでストレスはなくなるのではないか?

 

もともと出家とは自我の入れ替え。自分が何を大事と思うのかの評価基準の入れ替えである。それで解脱を選ぶとバラモン教になる。マインドフルネスには自我の入れ替えがない。

 

(小ネタ)バラモン教について

バラモン教と呼ばれているものはもともとブラフマンアートマンの統一を目指すブラーフマニズムから来たもので、もともとバラモンのための生き方を示していた。それがヒンドゥー教へと変化していった。

 

  • 煩悩があるから成長する。

悩みや辛いことはあって当然。それがないなんて仮死である。煩悩があるから失敗したり、成功したり、喜んだり悲しんだりする。煩悩があるから成長もする。

執着を無理やり捨てることは難しいし、無理やり捨てるものでもない。例えば本を書くことも悟ることも執着だが、悟りたいという執着があるのに、「執着を捨てなさい」というのはおかしい。執着を捨てるのではなく、正対することで、この執着はもう要らなかったんだな、と気づき、自然に捨てることになる。

 

  • 人生経験は悟りの道

人生経験を積んでいけばその先に自然と悟りがある。だから今の趣味やトラブルはすべて悟りに至る道である。悟りに至るには、一度手に入れないといけない。つかんだその先に離れがある。つかまないと離れない。だから人生で経験できることはしてもいいけど、執着はしてはいけない。

 

テニスをしていたとき、事故で急に腕をなくした。そのとき「あ、そうなんだ、じゃあ何しよう」となるのがしがみつかないということ。そして「どうしようかな」と考えることが瞑想である。でもそれは、もともと思い切り練習しないということではない。

 →これがちょっと難しい

 

(読書)不器用で苦しむからこそ得られる役割がある ゴッホ最後の三年

 

ゴッホ  最後の3年

ゴッホ 最後の3年

 

 

自分で自分の耳を切り落としたというから余程気が短い変人だと思っていたけど、それ以上に、人と生きることに対してとても不器用な人だった。

 

理不尽なことがあると、騙された!と腹を立てる。絵をバカにされると怒り狂う。その激情の裏側には、わかってくれない、理解されていないという深い悲しみと孤独があるようだった。

 

画家は孤独ではいけない、と画家のあつまるアトリエをひとりで作ったゴッホ。しかし、訪ねてくる人たちもなかなか続かず、親友ゴーギャンにも逃げられてしまう。皆のためと言いながら、孤独を抱えていたのはゴッホ自身だったのだろう。独りよがりで身勝手に見える行動も、読み進めるうちに愛らしくなってくる。

 

人とのコミュニケーションが壊滅的にできないゴッホが、ただの苦労人で終わらないところがこの本の面白いところ。ゴッホは耳を切り落としたあと病院で療養する。これまで感じたままを描いてきたゴッホは、病を患った体が感じる苦しい世界をそのまま絵に描くのだ。それが人々の感動を生んだ。

 

不器用で孤独だからこそ、その自分から目を逸らさずに芸術へと形を変えていくって、すばらしい力だと思う。誰にでも役割はあるんだなぁーと改めて思った本