(読書)嫌われる勇気

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

・(前提)世界は客観的なものではない。主観的なものである。
だから、客観的に「何かが起きたから、今の自分がこういうことをしている」という理屈は成り立たない。

 

アドラーは、過去の原因でなく今の目的を考える

自分の今の行動は、今持っている目的のために過去を利用しているに過ぎない。
トラウマも否定。人は、経験ではなく、経験をどう意味づけるかによって自分を決定する。決めるのは自分である。だからこれまでの人生に何があったとしても、今後の人生をどう生きるかについてはなんの影響もない。自分の人生を生きるのは今ここに生きるあなたである。幸せになる勇気があれば、変わることができる。

・あなたはあなたでいいが、いまのあなたがよいということではない。
人はみな何かの目的に沿った行動をしている。

例えば、ウェイターに「怒る」という感情も同じ。大声を出す、すなわち、「ミスを犯したウエイターを屈服させ、自分の言うことを聞かせる」という目的をかなえるために怒るのである。言葉で説明する手順を面倒に感じ、無抵抗な相手をより安直な手段で屈服させようとした。その道具として怒りを使ったということ。

何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかが大事。「不幸であること」は、自分で選んでいる可能性がある。不幸であることが自分にとっての善であると判断した理由がどこかにある。

・性格や気質はライフスタイルという言葉で説明する。

それには世界観や人生観もふくまれる。例えば悲観的な性格の人は「悲観的なライフスタイルを持つ人」といったように言い換えられる。性格は10歳頃に自分で選んだというのがアドラーの見識。先天的なものでないから、あとから選び直すこともできる。性格を変えることができないのは、変わらないという決断を自分で下しているからである。


・自分の短所が気になって自己嫌悪になるのは、「自分のことを好きにならないでおこう、それが善である」という決断をしているから。

例:ふられたくない相手がいるけど、まず赤面症を直さなければ・・
これは「赤面症にならなければ私はもっとうまく行くのに」という可能性のなかに生きようとしている。そうすればふられなくてすむ。告白できずにいる自分への言い訳、あるいはふられたときの保険である。
→やりたいことに遠回りしてたらだめなんかも

今の自分を受け入れてもらい、たとえ結果がどうであったとしても前に踏み出す勇気を持ってもらうこと=勇気づけ、という。

・他者から否定されることを恐れるからおきる!
他者から小馬鹿にされ、拒絶され、こころのなかに深い傷を追うことを恐れていると、そのために誰とも関わりを持たないようになる。目的は、他者との関係の中で傷つかないこと。その目的を叶えるために、自分のことを嫌いになり、誰とも対人関係にふみださない。そうすれば、「これさえなければ私も愛されるのに」「こんな短所がなければ人と仲良くできるのに」という理由づけができる

・劣等感は、努力や成長をうながすきっかけになる
一方で、コンプレックスというのは劣等感を言い訳に使い始めた状態。器量が悪いから結婚できない、など。権威の力を借りている人、自分を大きく見せる人は結局他者の人生を生きている。過去の手柄を自慢する人も同じ。自慢するのは劣等感を感じているからに過ぎない。

・不幸自慢
自分にふりかかった不幸を自慢するかのようにかたる。不幸であることにおいて人の上に立とうとする。そうすることで他者より優位になる。これは自らの不幸を武器に相手を支配しているということ。赤ちゃんも、弱さによって大人を支配する。自分の不幸を武器として使う限り、その人は永遠にその不幸を必要とする
健全な劣等感とは理想の自分との比較から生まれる。人は、同じではないが対等である。違いは善悪や優劣ではない。

・そのほかの例

子供が不良になるのは育て方が悪かったからではない。親への復讐をするという、今の目的を実行しているのである  
ニートや引きこもりとは、対人関係で傷ついてしまった人。仕事にまつわる対人関係を避けたいから、仕事をしないのである。
「Aさんが嫌い」とは、Aさんとの対人関係を回避したい、ということ。だからその目的に合わせて嫌いなところを見つけているのである。
どこかでこの関係を終わらせたい、と思っているから、今まで好きだった人でも嫌いになる。相手は変わらない。自分の目的が変わっただけ。

アドラーの掲げる目標

行動面

  • 自立すること
  • 社会と調和して暮らせること

この行動を支える心理面

  • わたしには能力があるという意識
  • 人々は私の仲間であるという意識

 

・われわれは他者の期待を満たすために生きているのではない

他者からの承認を求め、評価ばかりを気にして生きていると、最終的には他者の人生を生きることになる。

 

・そのための手段が「課題の分離」

これはつまり、他人の課題には口を出さないこと。対人関係のトラブルは他者の課題に土足で踏み込むことーあるいは自分の課題に土足で踏み込まれることによって引き起こされる。課題の分離ができるだけで対人関係は激変する。

 

・相手が変わるか変わらないかはその人の問題。

「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を飲ませることはできない」

本人の意向を無視して「変わること」を強要したところであとで強烈な反動がやってくるだけ。自分を変えられるのは自分しかいない。

他者の課題に介入すること、他者の課題を抱え込んでしまうことは、自分の人生を重く苦しいものにしてしまう。もしも人生に悩み苦しんでいるとしたら、その悩みは対人関係なのだから、「ここから先は自分の課題ではない」という境界線を知るべき。そして他者の課題は切り捨てる。それが人生の荷物を軽くし、人生をシンプルなものにする第1歩である。

「図書館司書になるなんて認めない」という親・・・「認めない」という感情にどう折り合いをつけるかは親の問題であって本人の問題ではない。気にすべきことではない。自分の生についてできるのは、自分の信じる最善の道を選ぶこと。その選択について他者がどのような評価を下すのかは他者の課題であって、自分ではどうにもできない。

 

・まずは「これは誰の問題なのか」を考える。

仕事とは社内の人に認められるということではない。上司が自分のことを理不尽な理由で嫌っているのであれば、こちらからすり寄る必要はない。

「あの上司がいるから仕事ができない」は「うまくいかない仕事」への口実として上司の存在を持ち出している。むしろ「嫌な上司」の存在を必要としているのである。この上司さえいなければ私はもっと仕事ができるのに、と。上司がどれだけ理不尽な怒りをぶつけてこようと、それは自分の課題ではない。理不尽な感情は上司自信が始末すべき課題である。すり寄る必要もないし、自分を曲げてまで頭を下げる必要はない。自分の課題には誰一人として介入させないことが大事。

 

・課題の分離は自己中心的になることではない。課題の介入こそが自己中心的。

親が子供に勉強を強要し、進路や結婚相手にまで口を出す。これは自己中心的な発想以外の何物でもない。

不自由な人は、今この瞬間を自由に生きている人を見て享楽的だと批判する。これは自分の不自由な生を納得させるために生きてきた、人生の嘘である。自分自身が本当の自由を選んだ大人ならそんな言葉は出てこない。

 

・嫌われる勇気

嫌われたくない、というのは私の気持ちだが、私のことを嫌うかどうかは他者の問題。私のことをよく思わない人がいたとしても、そこに介入することはできない。馬を水辺に連れていくまでの努力はするが、そこで水を飲むか飲まないかはその人の課題。

 

・共同体感覚

他者は遠すぎてもいけないが、近すぎてもいけない。他者を仲間だとみなし、そこに自分の居場所があると感じられることを共同体感覚という。アドラーの述べる共同体感覚には、家庭や学校、職場、地域社会だけでなく。国家や人類を包括したすべて、さらには動植物や無生物も含まれる。そして、共同体感覚とは、幸福なる対人関係の在り方を考える最も重要な指標である。

 

 

・承認欲求

課題の分離ができず承認欲求にとらわれている人もまた、きわめて自己中心的。他者からどう見られているか気に掛ける生き方こそ、私にしか関心を持たない自己中心的なライフスタイルである。自己への執着は捨て、他者への関心に切り替えなければならない。

 

学業、仕事、交友、恋愛や結婚も、すべては「ここにいてもいいのだ」と思える場所や関係を探すことにつながっている。そして、自分の人生における主人公は私である。ここまでの認識には問題はない。しかし、私は世界の中心に君臨しているのではない。わたしは人生の主人公でありながら、あくまで共同体の一員であり、全体の一部である。自分は王子様やお姫様とは異なる。他者はあなたの期待を満たすために生きているのではない。

 

・所属感は自分が積極的に共同体にコミットすることで得られる。

仕事、交友、愛という対人関係のタスクを回避することなく、自ら足を踏み出していく。あなたもわたしも世界の中心にいるわけではないのだから、自分の足で立ち、自分の足で対人関係のタスクに踏み出さなければならない。この人は私に何を与えてくれるのか?ではなく私はこの人に何を与えられるか?を考えなければならない。それが共同体へのコミットである。所属感とは生まれながらに与えられるものではなく、自らの手で獲得していくものである。

 

・ここにいてもいいんだという所属感

共同体とは、会社に限らない。家庭や会社のように目に見えるものだけでなく、目には見えないつながりまで含んでいる。たとえば一斤のパンを買うことでも、パン職人、小麦やバターの生産者、流通業者、産油国などすべての人につながっている。我々はみな複数の共同体に属している。学校こそすべてだと思っていると、どこにも所属感が持てなくなる。もっと別の共同体があることに注目してほしい。学校に所属感を持てないのならやめればよい。対人関係の中で困難にぶつかったときまず考えるべきは、「より大きな共同体の声を聴く」ということ。関係が壊れることを恐れて生きるのは他者のために生きる不安定な生き方。

 

・横の関係

縦の関係に生きているからこそ、ほめてもらいたいと思っている。アドラーはあらゆる縦の関係を否定し、すべての対人関係を横の関係とすることを提唱している。馬を水辺につれていくこと。こうした横の関係に基づく援助のことを勇気づけと呼ぶ。

 

・人は、褒められることによって「自分には能力がない」という信念を形成していく。

褒められて満足するのは、縦の関係に従属し、自分には能力がないと認めているのと同じだから。ほめるとは能力のある人が能力のない人にくだす評価だから。褒めることが目的になると、結局他者の価値観に合わせた生き方を選ぶことになる。それではうんざりしてしまう。

 

・まずは存在のレベルに感謝する

危篤状態のお母様は、たとえ行為としてできることがなかろうと、生きているということそれだけであなたや家族の心を支え、役に立っている。自分のことをまず存在のレベルで受けいれていく。

→ハムスターちゃんは、なにもしなくてもわがままに生きてるだけで好きだわ。それを自分にやるって難しいけど・・・

 

・誰か一人でも縦の関係を築いているとしたら、あらゆる対人関係を縦でとらえている。

だれか一人でも横の関係を築くことができれば、それはライフスタイルの大転換である。

それを突破口にしてあらゆる対人関係が横になっていく。

 

・自己への執着を他者への関心に切り替え、共同体感覚を持てるようになるためには自己受容と他者信頼、他者貢献の3つが必要。

 

・自己受容=肯定的なあきらめ

自己肯定ではない。「できない自分」をありのまま受け入れ、できようになるべく前に進んでいくこと。60点の自分に「今回はたまたま運が悪かっただけ。本当は100点なんだ」と言い聞かせるのは自己肯定。60点の自分を受け入れた上で「100点に近づくにはどうしたらいいか」を考えるのが自己受容。悲観をする必要はない。

変えられるものと変えられないものを見極めることも必要。

 

・他者信頼

対人関係の基礎は「信用」(条件あり)でなく「信頼」(条件なし)によって成立している。一切の条件を付けることなく他者を信じていたら裏切られることもある。それでも信じる態度を信頼と呼ぶ。裏切られてもなお信じ続けてくれるならば、背信行為を働くことは人にはできないものである。裏切るかどうかを決めるのは他者の課題なのだから、あなたはただ、「私がどうするか」を考えればよい。

裏切られることの恐怖を踏み越える勇気は自己受容から生まれる。ありのままの自分を受け入れ、自分にできることと自分にはできないことを見極めることさえできれば、裏切りが他者の課題であることも理解できるし、他者信頼に踏み込むことも難しくなくなる。

我々には信じることもできるし疑うこともできる。そして我々は他者を仲間とみなすことを目指している。信じることと疑うことのどちらを選択するかはあきらかである。

ここにいてもいい、と思えるためには他者を仲間だとみなす必要がある。そして他者のことを仲間だとみなすためには、自己受容と他者信頼の両方が必要になる。他者のことを敵だと思っている人は、自己受容もできないし他者信頼も不十分なのである。

 

・他者貢献

(つづく)