(読書)もやもやの正体 1.要約版

 

モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く

モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く

  • 作者:尹 雄大
  • 発売日: 2020/01/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

電車にベビーカーを持ち込むのは配慮がない?それともそんなことを言う人がおかしいのか?この問題をどう考えるか。

 

①満員電車はそもそも人が寛容になれる状態ではない。

そもそも、普段どんなにいい人でもぎゅうぎゅう詰めの電車の中ではあまり寛容な気持ちになれないものである。自分の感覚をシャットダウンしておかないとやり切れない状態。そんな、感覚を閉じている状態で正論を言ったとしてもあまり響かない。

 

②とは言ってもみんな、悪い人になりたいわけではない

冷淡に見える態度をとっている人も、自分だって寛容さや想像力が必要だということに薄々気付いている。が、嫌な自分を認めるくらいなら「そんな時間帯に乗るのが悪い」と言い切った方が良い。それなら自分を責めなくても良い。

 

③良くない自分を責められたくないから、「自分は正しい」と言い切る言葉に魅力を覚える

人はだれしも「良くありたい」もの。良くはありたいけど、そうでない自分を責められたくない。そんな揺れる気持ちを抱えていると、すぱっと「わがままだ!(=自分は正しい、相手は間違っている)」と言い切ることに魅力を覚える。

 

④しかし、一方で居心地の悪さもある

相手を責めることは一方で居心地の悪さもある。それはきっと、誰しも弱いし、ときにこずるいことだってしてしまう、大したことのできない自分の存在を知っているから。

 

⑤では?

複雑な世の中であるからこそ、白黒つけないことにとどまる足腰の強さはあった方が良い。同意でもなく、反論でもない道がある。

 

自分を肯定したい、でも恐れからそう言えない気持ちが、「周囲への配慮がない」にすり替わっている

「ベビーカーを持ち込むのは周囲への配慮がない」には、「私に対する気遣いがない」という意図が隠れている。「自分」でなく、「みんな」に言い換えてしまうのは、「結局自分がワガママか!」と言われかねないから。「素の自分を出して、思っていることを言うのはワガママなことなのだ」、という判断を自分でしてしまっているということ。誰に言われたわけでもないのに、「みんなにワガママだと思われてしまう」と周囲の目線を気にしている。周囲の反応を先回りして自分の気持ちを抑圧している。

このようにみていくと、周りの配慮を持ち出し、ものごとのよしあしを他人に倣って判断しようとする態度に潜んでいるのは「私のことを気遣ってほしい」であって、決して起きている物事への関心ではないのではないか。自分の願望や期待を含めた、他人に承認を求める意見の披露である。

 

では?

「しょせん人間はワガママだ」と開き直るのも「自分はなんて醜いのだ」と罪悪感にひたるのも、どちらも現実逃避である。だったらこれが自分の姿だ、と認めてしまうのはどうか?

 

「私のことを気遣ってほしい」という承認に向けた飢えが根底のところで訴えているのは、「私は他人の目を気にする自分ではなく、私は私であることに配慮したい、自分を肯定したい」という切実さである。

褒められるのはみんなと同じだからであって、決して私が私と認められているからではない。そのことに当人はどこかで気づいているはず。私が私として存在している、その単純なことがかなわない。そのことへの葛藤が自己肯定に対する飢餓感として表れている。「私らしくいたい、我が儘でいたい」

 

自己否定

自己否定は他人と足並みをそろえるための方便でもある。自身の実力を信頼する気持ちがあるからこそ、自分や他人を思いやることができ、それが謙虚な態度を生む。しかし、「私なんて」から始まる卑屈さは、他人の提示する価値観や基準を満たせないことへの焦燥や妬みを内包している。自信が持てないからこその謙虚さは、居丈高な態度へと簡単に変換する。卑屈と傲慢を行き来することでしか自分を認められない。本当の自己否定なら、他人に望まれるような自分を演じるというエゴを相手にしなければならないはず。

 

「できること」だけが評価され、できないことが嘲笑される社会

できないことや弱い自分を否定され続けると、できる人の存在が自分の否定として感じられてしまう。できないことがプライドの問題に発展してしまう。「いや私なんて」と謙虚な態度をしつつも、シビアに力量が問われると自分が否定されることに耐えられない。かといって自分の弱さを見つめることもできない。受け入れられず、いたずらに他人の否定に奔走する。

 

共感

世間は共感を重視してはいても、本当は感覚的な共感を求めてはいない。求めているのは「みんなと同じ」であることに対する頭の同意。「みんなと同じ」に価値を置くと差異を認めなくなる。私と同じ他者を認めないということは私自身を認めないということにつながる。みんなと同じことに価値を求める世界では、内なる他社の存在は生きながらえることができない。

他者を完全にわかることはできない。すれ違いもある。だからこそ互いの人生への敬意が生じる。

 

自信

職人は感覚を大事にしている。他人がどうであれ自分の感覚こそが重要で、あまり人に共感を持ちたいと思っていない。自信はあるが、意識的な自信(「自分はこれができるから自信がある」)ではない。根拠のなさに耐えられる身体こそが、根拠なくこの世に放り出されてしまったという「わけのわからなさ」に対応できる鍵なのかもしれない。

人から得た情報を相手にする仕事では身体的な技があまり身につかない。ノウハウを学ぶのでなく、体験に基づく感覚が必要。

 

感情のコントロール

いつでも感情がコントロールできるとしたら、それは他人のあるべき姿としてしつけられ、選ばれた意識的感情である。コントロールできない怒りというのは、ある種条件反射的なもの。

 

「正しくあらねばならない」という葛藤

正しくあらねばならないという考えは葛藤の存在を表している。「そうでなければいけない」という言葉はまさに、当人が決して現状に満足していないから。本当は受け入れたくなかったけど、そうせざるを得なかった。そんな出来事がかつてあったことを示している。

正しくある自分を作り出すことで、社会的には承認される。がしかし、それは自分が「自分でないもの」になるプロセスでもある。そしてその根底に「わかってくれない」という悲しみがある。そこから生まれる怒りは「自分にはわかってもらえる価値がない」という無力感と表裏一体である。

癒えない傷とむなしさに触れるような他人の言動は怒りのパターンとして表れる。本人に衝動的に感じられるのは、怒りをめぐる物語が自覚されていないから。そしてその行動は、「私は傷ついたし怒っている」という受け入れがたい過去があった事実をひどく回りくどいやり方で自分に見せているということでもある。

私たちの善悪の判断は、自分で試行錯誤を経て経験したものではないのかもしれない。葛藤に満ちた記憶を未処理のまま、築き上げた価値観を社会規範に合わせてカスタマイズしているだけではないか。

他人はともかくまずは私にとっての感覚的な正しさがある。そこから始めるからこそ私を離れた「正義とは何か」という概念が立ち上がってくる。しかし、空気を読むことで成り立つ世間には、私にとっての正しさや公共性よりも優位に置かれるコンセプトがある。それは。「みんなそうしてやってきた」という慣習としての正しさ。意見の対立は悪いことではない。対話の始まりである。対立自体は分断ではない。理解のできなさを巡って鎬を削ることが大事。

 

努力して変化してた自分に「わざとらしく感じること」は生じていなかったか?自分が本当にそれをやりたいのか、本当にいいと思っているのかを傍において、周囲の目線を気にして行動してぎこちなくなる感覚。「良かれと思うこと」に向けて努力した結果「自分は変わった」と思う人もそうでなかった人も、「ある概念を実行すればきっとその結果がもたらされるはず」と信じられている一連のメカニズムへの違和感がないか?しかし、期待通りの出来事が起きないときに「努力が足りない」「方法が間違っている」と私たちは自身に言い聞かせる。

 

正しい知識がないと行動できないということがある。こうした方が良い、これが正しい、とさんざん言われてきたが、それがしっくりこないことがあるとしたら、考えがそもそも身体に合っていないのかもしれない。自分の感覚を確認してみるとヒントがある。例えば、「相手に迷惑ではないか?」という気持ちがあるとしたら、その時身体は、腰が引けて相手の様子を盗み見ていないか?

 

自己本位に立ち返る

世間の空気、他人の視線によって削られた感性を、みんなから逸脱しないことが正しい、といった、社会の提供する信念で埋めていくこと。それは諦めと同時に成長でもあった。感じていることをそのまま表現することはワガママと価値づけされるが、本当はそのように判断され却下される前に校庭や否定など様々な反応がありえたはず。全面肯定でも全面否定でもなく、他人とのせめぎ合いの中で生まれる新たな独自の価値観があるのだから、それらを含めてあなたなのだ、という包括的なとらえ方をされてしかるべきだった。

 

意識は過去にとらわれるもの。これまでのことを後悔しても決して取り戻せず、焦りは募り、変わりたいという思いは空転する。絶望感でいっぱいになる。が、身体はそうはならず、歩みを続けている。そこに着目することがこの先に向かう希望になりえる。

自己本位に立ち返った時、これまでの生き方が窮屈になり、手にした信念がもたらす物語が呪いに満ちているように感じる。他人の信じる正しさを見聞きして葛藤を感じると、もやもややイライラなど身体の反応が起きるはず。その感覚に従うことが大事。それはみんなからの逸脱を意味するかもしれない。この世にあふれている言葉は「誰かのようになる文法」ばかり。しかし、誰かと同じような言葉を語り続けることで一生を終えたいか?それらを手放さなければ新たな言葉は手に入らない。

自分が感じているということはだれにも侵せない。何を感じているかといえば、私が生きているという取り換えのきかない事実。逸脱は反社会ではなく非社会的行為だ。単に現状の社会の中に見当たらないという意味。「ないのだから作る」!である。