(読書)「人とは何か」を常に決定できるのが人間である 夜と霧

全うに苦しむことができると言うだけで、それはもう精神的になにかを成し遂げることである。

 

仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではない。強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はある。

 

 

おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげられないのなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、意味はない。

 

ひとりの人間が避けられない運命と、それが引き起こすあらゆる苦しみを甘受する流儀には、きわめてきびしい状況でも、また人生最期の瞬間においても、生を意味深いものにする可能性が豊かに開かれている。勇敢で、プライドを保ち、無私の精神をもちつづけたか、あるいは熾烈をきわめた保身のための戦いのなかに人間性を忘れ、あの被収容者の心理を地で行く群れの一匹となりはてたか、苦渋にみちた状況ときびしい運命がもたらした、おのれの真価を発揮する機会を生かしたか、あるいは生かさなかったか。そして「苦悩に値」したか、しなかったか。 このような問いかけを、人生の実相からはほど遠いとか、浮世離れしているとか考えないでほしい。たしかに、このような高みにたっすることができたのは、ごく少数のかぎられた人びとだった。収容所にあっても完全な内なる自由を表明し、苦悩があってこそ可能な価値の実現へと飛躍できたのは、ほんのわずかな人びとだけだったかもしれない。けれども、それがたったひとりだったとしても、人間の内面は外的な運命より強なのだということを証明してあまりある。

 

「人生は歯医者の椅子に坐っているようなものだ。さあこれからが本番だ、と思っているうちに終わってしまう」
それはこういい変えられる
強制収容所では多くの人たちが、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた」
実際には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。

 

なぜいきるかを知っている人は、どのようにいきることにも耐える
目的を見い出せない人は、自分が存在する意味をなくし、頑張り抜く意味も失う。そう言う人は拠り所を失ってあっというまにくずれてしまう
ここで必要なのは、いきる意味についての問いを180℃方向転換することだ。いきることから私たちが何を期待するのかではなく、生きることが私たちから何を期待しているのか?を学び、絶望している人たちに伝えなければならない。行動によって、適切な態度によって正しい答えは出される。生きることが各人に課す課題を果たす義務、要請を引き受けることに他ならない

 

果たすべき要請と、存在する意味は、状況により変化する。それはつねにとことん具体的である。

 

人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに、全宇宙にたった一度、二つとないあり方で存在している。苦しみは人には渡せない。その運命を引き当てた人自身がこの苦しみを引き受けることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった1度の可能性がある。

 

自分を待っている仕事や愛する人間に対する責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさになぜ今自分が存在するかを知っているので、ほとんどのことにたえられる。

 

看守にも善人と悪人がいた。どんな集団にも善人と悪人がいる。